華厳寺:岐阜県揖斐川町

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【 概 要 】−華厳寺には次のような伝承が伝えられています。延暦17年(798)陸奥国会津黒河郷富岡(現在の福島県大沼郡会津美里町)の領主である大口大領が観音信仰に帰依し修行を行うと文殊菩薩の遣いと思われる童子が出現し1本の霊木を得る事が出来ました。早速その霊木から十一面観音像を彫刻して欲しいと京都の仏師に依頼しました。十一面観音像が完成すると、観音像は自ら笠を被り、草鞋を履き、藤蔓を杖にして大口大領と共に領地である会津に向かい歩きはじめました。すると、観音像は美濃国赤坂(岐阜県大垣市)付近で足を止め全く動かなくなってしまいました。大領が困ってり果てると、その晩、霊夢に観音像の化身が立ち赤坂の北五里の山中に霊地があるからそこに祀って欲しいとの御告げがありました。大領は早速その地を訪ねると、燃える水(原油)が滾々と湧き出る泉を発見し、この地こそ霊地であると悟り、当地で修行していた豊然上人と協力して御堂を造営しました。御堂が完成すると観音像は再び歩き出し、御堂内部に収まったのが華厳寺の始まりとされます。延暦20年(801)、その話を聞いた桓武天皇も篤く帰依し勅願寺とし、さらに、延喜17年(917)には醍醐天皇から山号「谷汲山」と寺号「華厳寺」の扁額を賜り、天慶7年(944)には朱雀天皇が寺領1万5千石を安堵し鎮護国家の道場としています。寛和2年(968)に花山法皇が西国三十三箇所霊場再興の為巡錫で華厳寺を訪れた際、当寺を満願所と定め、禅衣、杖、御詠歌(3首)を奉納し(御詠歌の内1首は覚忠の作、応保元年:1161年時点では華厳寺は満願所ではなかったとされます)、鎌倉時代には後白河法皇が多くの御供を従え参拝に訪れています。南北朝時代には堀口美濃守貞満の乱など度々戦乱に巻き込まれ境内が荒廃しましたが、文明11年(1479)に道破拾穀上人(鹿児島市下福元町:慈眼寺の住職)の霊夢に観音像の化身が立ち「私が祀られている華厳寺を立て直してほしい」との御告げがあり、再興に至りました。明治時代の神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により再び荒廃すると、明治8年(1875)に豪泰法印により再興が図られ、明治12年(1879)には本堂が造営されています。
東海地方の名刹巡礼 古寺100選
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